前回Part 4はこちら
ブキ・ティマ (Bukit Timah) の頂上まで辿り着いた達成感(?)を味わった後は、近くにあるブキ・バトック (Bukit Batok) を訪ねることに。
そこで触れた、知られざる太平洋戦争時の歴史の一端とは?
事前に調べたところでは、ブキ・バトックはブキ・ティマの近くにあるということ。
ということで、蒸し暑い中ではありましたが、ブキ・ティマから歩いてブキ・バトックに向かうことにしました。
ブキ・バトックの入口に辿り着いた僕は、なだらかも距離の長い坂をひたすら上っていきました。
先ほども小高い山(というよりかは丘?)を登ったということがあって、案外キツかったですが、なんとか頑張りました(汗)。
ブキ・バトックの長い坂をやっと上がりきました。
すると英語の説明書きが設置されていたのですが。
「Syonan Chureito」?
なんか日本語っぽい!
その中の英語を読み進めていくと。
「皆さんが今立っている場所にはかつて神社がありました(You are now standing near what was once the Shonan Chureito - a Shinto shrine)」ですって!?
更に英語の説明文を読み進めて行くと、高校時代には世界史を選択して日本史を取らなかった僕として、非常に興味深い説明がありました。
東南アジア諸国に訪問する度に、今まで詳しく知らなかった太平洋戦争の歴史に出くわすわけですが、ここシンガポールでも、当時どのような事が起こっていたのかを認識することととなりました。
一般的に「東南アジア諸国は親日」という認識が先行している一方、太平洋戦争時に旧日本軍が現地で何をやってきたのか、ということも理解する必要があることを改めて感じました。
※参考リンク
ハフポスト日本版2017年2月24日配信「太平洋戦争時の日本占領名"昭南"を戦争記念館に拒否したシンガポール国民」
※シンガポールMRTにブキ・バトック駅がありますが、実際はビューティーワールド駅からの方が近いです。
https://www.nparks.gov.sg/gardens-parks-and-nature/parks-and-nature-reserves/bukit-batok-nature-park
Part 6へ続く。
シンガポールと旧日本軍関連の歴史については、こちらの書籍もご参考に。
ブキ・ティマ (Bukit Timah) の頂上まで辿り着いた達成感(?)を味わった後は、近くにあるブキ・バトック (Bukit Batok) を訪ねることに。
そこで触れた、知られざる太平洋戦争時の歴史の一端とは?
ブキ・ティマからブキ・バトックへ!
事前に調べたところでは、ブキ・バトックはブキ・ティマの近くにあるということ。
ということで、蒸し暑い中ではありましたが、ブキ・ティマから歩いてブキ・バトックに向かうことにしました。
ブキ・ティマ入口にあったブキ・バトックへの行き方を頼りに歩きました。 |
ブキ・ティマ周辺の住宅街を抜けるアッパー・ブキ・ティマ道路 (Upper Bukit Timah Road) に沿って北上します。 |
アッパー・ブキ・ティマ道路に沿って北上し、「CROSSING」の少し先にある横断歩道を渡ると。 |
「BUKIT BATOK NATURE PARK」の看板を発見! |
ブキ・バトックの坂をひたすら上がる!
ブキ・バトックの入口に辿り着いた僕は、なだらかも距離の長い坂をひたすら上っていきました。
先ほども小高い山(というよりかは丘?)を登ったということがあって、案外キツかったですが、なんとか頑張りました(汗)。
ブキ・バトック入口から続く坂。 なだらかですが距離が長いので思いの外キツイです。。。 |
シンガポールに神社があった!?
ブキ・バトックの長い坂をやっと上がりきました。
すると英語の説明書きが設置されていたのですが。
「Syonan Chureito」?
なんか日本語っぽい!
その中の英語を読み進めていくと。
「皆さんが今立っている場所にはかつて神社がありました(You are now standing near what was once the Shonan Chureito - a Shinto shrine)」ですって!?
更に英語の説明文を読み進めて行くと、高校時代には世界史を選択して日本史を取らなかった僕として、非常に興味深い説明がありました。
Yamashita Tomoyuki, Commander-in-Chief of the Japanese forces, ordered the construction of the memorial to commemorate the Japanese soldiers who were killed in the battle of Singapore.
(旧日本陸軍の山下奉文が、シンガポールでの戦いで戦死した日本兵を追悼するための神社を建設することを指示しました。 )
This area had seen one of the fiercest battles between the Japanese and the Allied troops.Nearby was the Ford Motor Company factory, where Lieutenant-General A.E. Percival had unconditionally surrendered Singapore on 15 February 1942 to Japan.
(この地域では旧日本軍と連合軍との間で激戦が展開されました。近くには米自動車会社フォードの製造工場がありましたが、1942年2月15日にはここで(イギリス陸軍の)パーシバル中尉がシンガポールを日本に無条件譲渡することとなりました。)
At end April 1942, about 500 to 800 Australian Imperial Forces Prisoners-Of-War (POWs) and a subsequent party of Britisch POWs were taken from Changi Camp to flatten the land, build a parking lot and a long flight of steps leading up to the memorial.
(1942年4月下旬には、約500~800人に及ぶオーストラリア軍・イギリス軍の捕虜がこの丘に連行され、神社へアクセスするための駐車場や坂を作らされました。)
The Shonan Chureito was formally unveiled on 10 September 1942.Over the next three years, Shinto services and burial ceremonies were held periodically at the memorial to honour the Japanese war dead from the region.
(昭南忠霊塔は1942年9月10日に公式お披露目。以降3年間神道形式の儀礼行事や葬儀が断続的に行われました。)
東南アジア諸国に訪問する度に、今まで詳しく知らなかった太平洋戦争の歴史に出くわすわけですが、ここシンガポールでも、当時どのような事が起こっていたのかを認識することととなりました。
一般的に「東南アジア諸国は親日」という認識が先行している一方、太平洋戦争時に旧日本軍が現地で何をやってきたのか、ということも理解する必要があることを改めて感じました。
※参考リンク
ハフポスト日本版2017年2月24日配信「太平洋戦争時の日本占領名"昭南"を戦争記念館に拒否したシンガポール国民」
ブキ・バトック入口からの坂を上がりきったところからの階段を少し上がると。 |
昭南忠霊塔に関する説明書きがあります。 |
かつて戦争の爪痕があった場所は、ボクシングの練習が出来る平穏な場所に。 |
ブキ・バトックの周辺地図
※シンガポールMRTにブキ・バトック駅がありますが、実際はビューティーワールド駅からの方が近いです。
ブキ・バトック公式ページ(英語)
https://www.nparks.gov.sg/gardens-parks-and-nature/parks-and-nature-reserves/bukit-batok-nature-park
Part 6へ続く。
シンガポールと旧日本軍関連の歴史については、こちらの書籍もご参考に。
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